首都ハラレからムタレヘと向かう夜行列車はまるで今のジンバブエを象徴するかのようであった。一等寝台列車が2ドルと喜んだが、電気は付かない、ブランケットなどの備品は全て盗まれてしまってなし、車掌が盗難に気をつけてくださいと言いにくる。楽しみにしていた列車だったのに、まあ安すぎるので仕方ない。
ムタレからトレッキングの基点となるチマニマニヘ。ここで、ヘブンロッジと呼ばれる宿に泊まるが、いいところだった。一泊一人150円。でも、なんでこう、いいと思う場所は全て白人の経営なんだ。おい黒人、もっとがんばってくれよ!この宿には僕たちだけしか客がいなかった。宿主は嘆いた、昔は一日に50人以上人が来たんだよ、と。全てはこの国の混乱のせいで、今は観光客がいないのだ。
この辺も土地争いがあった地域で、実際に黒人の手に渡って荒れ果ててしまった土地も見たし、今も白人が所有する、それはそれは手入れの行き届いた美しい大農場も目にした。
ここで仲良くなった、とある黒人に聞いた、白人から黒人に土地が戻ってうれしいかと。
答えは意外なことに「ノー」だった。
公務員の彼は言った。
「南アフリカとは違い、この国では俺たち黒人と、白人は仲良くやっていたんだ、白人の人はいい人が多いしね。あの農場を見たかい、黒人には資本がないからいくら土地があったって、きちんと手入れをすることはできないんだ。いい農場を作るにはそれなりのお金が必要なんだ。
この地域では、ほんと、俺たち仲良くやってたんだ。前回の地方選挙だってさ、地元の黒人のほとんどが白人の候補者に投票したんだよ、でも選挙は不正ばっかりだしね。
大統領選挙だってそうさ、現大統領の手下の警察官の目の前で、候補者の名前を記入させられたのさ。みんなビビッちまって、ムベキの名前を書いた。彼は歳をくってもうろくしちまったのさ、反対勢力は次々と牢屋行き。アフリカの権力者はみんなそうだ、それをしなかったのはマンデラだけ。」
さて、
ここから僕らは「かつて」トレッカーズパラダイスと呼ばれたチマニマニ国立公園へと向かった。もちろんこの山にも外国人料金があり、それは現地人の30倍だった。僕らはヘブンロッジの親父さんの助言どおり、マラウィで働いている、と嘘の申請をして、15倍の料金に下がった。この山も昔は多くの人で賑わっていたというが、今は広大な山塊に僕と彼女の2人だけ。
今回はガイドなし、地図もなし。でもマーカーがしっかりと付いていたので、ベースキャンプから2時間の山小屋まではまったく問題なし。
岩の多い山塊で、巨大岩が大地にポコポコと生えていた。一見マラウィのムランジェ山を彷彿させるが、ムランジェと違うのはその岩がどれも尖っていること。風化しているのか穴が開いた岩や奇妙な形をした岩も多い。
山小屋からは一面の大草原がバババーン!と広がった。あまりにも広いので今日の目的地も見えてしまう。なるほど、地図はいらないわけだ。草原の奥には2000m峰が連なる。この山々がモザンビークとジンバブエの国境となっている。
山小屋からスケルトンパスと呼ばれる峠まで一時間。この道はかつてグレートジンバブエ遺跡からモザンビーク島まで、とあるものを運搬(?)するのに使われた。それは奴隷であった。だから峠の名前がこんなみ不気味なものなのだろう。
今でもパスポートを持たない地元の人々が行き来していると聞いた。
この峠より先はモザンビーク領。
10分間ほどモザンビークに密入国した。
今日のキャンプ地は洞窟。この公園では洞窟を泊まり歩くトレッキングができる。ということで、なんかアドベンチャーチックなものを想像していたのに、今日の洞窟はただのオーバーハングの壁、しかもその中で立つこともできない。これで本来20ドルも宿泊料が取られてしまうのはたまらないなあ。
2日目
荷物を山小屋に置きに行き、この山塊の最高峰であるビンガ峰を目指す。草原を越えるとアップダウンの連続。あいにく途中から周囲をガスで包まれてしまった。
岩がゴロゴロと転がる頂上までは3時間、コンクリートの石碑がポツリと立っていた。それにはRとMだけ書かれていた。Rはジンバブエの昔の名前、ローデシア。Mはモザンビーク。今日もモザンビークに密入国してしまった。
この山、モザンビークの最高峰である(ジンバブエでは2番)。
山小屋はベッドルームが3つ。暖炉も水道もあり、これを独占というのはすごい。これが昨日の岩下の避難所と同じ料金というのもすごい。
3日目
今日で下山することにした。下山の前に滝を2つほど見に行った。夏に来たら、水遊びができて、さぞかし楽しい公園だと思う。
庭園のような、整頓された美しさのある国立公園だった。
山は観光客が来ないほうが、むしろ嬉しいように見えた。
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