7月18日、自宅を出発した僕は大阪行きの夜行バスに乗っていた。大阪から中国行きの船に乗船するためだった。行き先は上海。本来なら天津行きの船に乗るはずであったが、予定の船が台風に計器をやられてしまい、急遽行き先を上海に変更せざるをえなくなったのだ。上海まで船で50時間。そこから1200キロ離れた北京へ。
北京からはシベリア鉄道でモンゴルのウランバートルへと向かう。
あまり知られていないかもしれないがシベリア鉄道には3つのルートがある。
どれもモスクワを目指すことは変わりないが、出発地点が北京、満州里、ウラジオストックと異なるのだ。
僕はウランバートルで下車した、ロシアのビザを取得するためだった。
ウランバートルはロシア風の面白みのないコンクリートが並ぶ、退屈な町だった。田舎で悠々の暮らしをしていた人々も、今は職を求めて都会を目指す。当然の行動だ、しかしそこに職はなく、彼らは昼間から(ロシア人のように)ウォッカを飲み、虚ろな目で遠くを見つめていた。
ぼくはこの退屈な町がつくづく嫌いだった。しかしロシアビザの取得にてこずり、この町に幾日も滞在することとなり、何度となく大使館に足を運ばなければいけない羽目になってしまった。
ロシア大使館は「なぜか!!!」14時から15時の間しか開いてなく、その時間には外人の行列がドアの前にできるのであった。
局員の窓口へと続く扉の中へは一人ずつしか入ることができないのだが、扉から出てくる人出てくる人が次々に罵声を吐く
「ちくしょー、ビザくれないぜ!」「FAXの招待状じゃあ無効だとよ!旅行会社を通して取得したのにどーなってんだ!」
などと。それを見ている旅人たちは気が気じゃなく、大使館の中には常に重い空気が流れていた。
ある日ビザの値段と必要な書類を聞きにいったときのことだ。
「必要なのはモスクワまでの列車のチケットと、モスクワから国外に出る証明書だ。どうやってそれをとるかって?そんなの俺の知ったことか」
とプーチン似の軍隊風の男は吐き捨てるように言った。そして値段を尋ねると
「日本人は25ドルから500ドルの間、書類を持ってきたときに教えてやる。ハイハイ出てった出てった、おまえは今ほかの人の貴重な時間を盗んでるんだぞ!」
と言いはなったのである。
25ドルと500ドルの間というのはすごい違いだ、何日にするといくらかかるのか、何度聞いても「書類をすべて持ってきたときに始めて教えてやる」の一点張り、ひどい局員だった。これだから社会主義国(旧だけど)は嫌いだ。
結局トランジットビザしか取得できず、それでも尚申請日数が一日少なかったため、ビザ代に100ドルが消えた。
ビザを待っている間、ウランバートルの南の山に2日間登山をしに行き、その後、350 キロ離れた古都「カラコルム」へ行く。そこでぼくは念願であったモンゴルの乗馬をすることができた。
ガイドを雇い一泊二日の乗馬ツアーに出かける。値段は1日15ドル。
In the middle of no where
そこには無限の大地が広がった。どこまでもどこまでも果てしなく広がる草の海。
「チョー!チョー」と叫びながら(ちょっとかっこ悪いけど、これがモンゴルの掛け声なんだ!ってガイドに怒られた)ぼくらは馬を走らせた。ここは誰の土地でもない、どこで糞をしようが何をしようが全くの自由だ。同い年のガイドは喉が乾くとすぐに寄り道をしたがった。
「あー、馬のミルクが飲みてえ、、、よしあのゲルに寄ろう」
「知り合いなのか?」
「全く知らないよ」
いつでもどかどかと他人のゲルに入っていっては、昔からの友達のようにさも普通に雑談し、ミルクやチーズ、時には肉やウォッカまで飲ませて貰った。そして夜もまた、全く知らない人の家に泊めてもらい、肉やうどんを食べさせてもらった。
ここにはかの昔から引き継がれた、遊牧民ならではの暖かいもてなしの文化がまだ残っているのだ。そして都会に住んでいる人々より、田舎の人は豊かで幸せそうな顔をしているのである。(実際に現金はないかもしれないが馬や牛、羊を何頭も持っているので食には困らないし、裕福だと思う)馬飼いは本当に自由自在に馬を操り、草原を駆け抜けていった。「馬飼いになりた い!」って一瞬思ったほどかっこよかった。
馬を走らせどこでもないどこかで、満点の星空を眺め、あたりに何もない小川の辺のテントで風の音を聞きながら眠った。アウトドアを愛するものにとってこの上なく幸せで贅沢な時間であった。
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