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さらなる試練 (イラン)
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イランに入国してから10日後、ついに待望のテヘランへ到着。しかし、町に着くわずか手前で警察官と名乗る者に呼び止められた。
「秘密警察だ、パスポートを見せなさい」
 その私服を着た痩せた長身の男は、そう言うと、ポケットからペルシャ後で書かれたIDを取り出した。車には相棒が乗っており、無線機もどきで通信中の猿芝居をしていた。
「やだよ、おまえもどうせ、偽者なんだろ」
 そう言い放つと、
「ち、違う。今仲間を呼んできて証明するからな」
 と、捨てぜりふをはき消え去ってしまった。
 やれやれだ。ま、とにかく到着だ、これでやっとしばらく休めるのだ。情報ノートに掲載された「マシュハド」という宿に辿り着くと、疲れと安堵感からか体がぐったりとした。

 頭がハンマーで殴られてるようにガンガン響く。腹の調子も悪く、30分に一回はトイレに行き、お尻からしょんべんをしてるみたいだった。朝から体が思うように動かなかった。異国で病気になるのがこんなに辛いものだとは思わなかったな。
 イスタンブールからテヘランまで29日間、休んだのはカッパドキアでの1日だけで、残りは毎日自転車をこぎつづけていた。その、カッパドキアで過ごした日だって1日中、山を歩き回っていたのだ。
 こぎ疲れながら町につけば、重い体を引きずって街中を夜遅くまで歩きつづけた。野宿をすれば、次の日は早朝早くからこぎ始めた。山道を毎日100キロ以上進むには平地よりも長時間、重いペダルを踏み続けなければいけなかった。なにがぼくをここまで駆り立てたのか分からないけど、休もうとせずひたすら前に進みつづけた。しかし疲れは体に蓄積していくということがわかった。1ヶ月分の疲れが蓄積していた。そしてそれがテヘランに着いたという安心感から爆発したのだ。
 普段は健康すぎるほど元気なので、体を壊すと人一倍弱かった。暗い部屋の汚いベッドに横たわりながら、このまま死んでいくのかなと心細くなったりもしたけど、丸一日食事も取らないでただひたすら眠りつづけると、次の日には何とか体が動くようになった。

 イランの首都テヘランはつかみどころのない町だった。街は果てしなく広く、どこに行って何をすればいいのか分からない、何を観ればいいかわからず、いつものように歩き回ってみるもの、同じような商店が並びそれがどこまでも続いていた。売っているものも、アメリカ産の贋物製品ばかりで、ぼくが本当に必要としている自転車の部品や、アルカリ電池、精度のいい地図、どれもどこを探しても見当たらなかった。電気街を歩き回ってアルカリ電池がないと知ると、ぼくはこの先の町では電池すら売ってないんじゃないかと不安になり、マンガン電池四個入りを十パックも買ってしまった。
 広すぎる街に特徴というものが浮かび上がってこなかった。世界有数の排ガス都市なので歩いているだけで息が詰まる。風邪の疲れがまだ残っているのか、空気が悪いせいなのか、歩くのがかったるいし、何を見ても興味が湧かなかった。あんなに期待してたのにつまらない街だな。
テヘランきらーい。

ここまで急いでいた理由の一つ、大使館に日本から送ってもらった郵便物を取りに行く。海外で手紙を受け取るというのはとても嬉しいことなのだ。
 大使館の前にはイラン人の行列ができていた。四方を鉄格子に囲まれ、監視カメラが付いており、入り口も牢屋のような頑丈な鉄格子のドアで、中には銃を持った警備員が見える。日本人だと告げると、優先して通してくれたが、空港で受けるような体と手荷物の厳重なチェックを受ける。中に入ると窓口はマジックミラーになっていて、係員とはミラー越しにマイクで話さなければならなかった。なんてそっけない大使館なんだろう。
 しかし、これらの厳重な警備にはどうやら理由があるらしかった。イラン人に対しての日本ヴィザの発行が厳しくなってからというもの、ヴィザを発行してもらえなかった人々に逆恨みされているという。大使館は一度は放火され、職員も顔を覚えられ、街中でのトラブルが起きたという。だから、顔を覚えられないようにマジックミラーになり、この警戒態勢が敷かれてしまったのだ。
 日本からの手紙は6通も届いていた、嬉や。両親が小包を送ってくれたらしいが、それは検査を受けなければならないので、中央郵便局まで取りに行かねばならないと言われた。
その足で郵便局へと向かうと、2時なので小包業務は終わりと突き放され、また明日来いと言われた。

 翌朝10時に郵便局へと行くと、番号札を渡され、ただ待てと言う。待つこと3時間半、1時半にやっと呼ばれぼく宛てのゆうパックと書かれた箱が奥から運ばれてきた。やっと受け取れる、そう思ったが、係官はこれから検査すると一方的に言いはなつと、中身を一つ一つ外に出し細かく紙に書き込みながら調べていった。
おいおーい、いい加減にしてくれよ。中からは、小説、新聞の切り抜き、味噌汁、カップ麺、梅干し、テープなどが出てきた。日本語など読めるわけないのに、彼は一つ一つじっくりと眺めていった。
「これと、これは、特別な検査が必要だ」
小説と、新聞、テープを指差し検査官は言った。小説は野田知佑のカヌー旅行について書かれた本で、表紙にもカヌーに彼が乗った写真が使われていた。テープは弟がダビングしてくれたイギリスのバンド『オアシス』で、どれも何の問題もなさそうだった。
「なんで?何の問題もないでしょう、もう受け取らせてよ」
ぼくがむきになって言うと
「この国にとって有害かどうか調べなければならない。専用の検査官は明日にならないと来ないので、また明日くるように」
有害?なんでたかが荷物一つ受け取れないのだ。
「4時間も待ったんだ、いいから受け取らせてくれよ」
ぼくはカンカンに怒っていた。でも彼は「また明日きなさい」と繰り返すだけだった。
これが、イランなのですかい・・
 
 宿に戻ると、もう4時だった。今日はいったい何をしていたのだ。もう、テヘラン大っきらい。
 翌朝、昨日の教訓を生かし7時半から並んだ。おかげで早い番号の札を受け取れた。それでも2時間も待たされ、呼ばれて行くと、なるほど今日は昨日よりは偉そうな係官がいる。彼はさも日本語が読めるかのように、本をパラパラとめくり、新聞を眺めた。
「よし、このテープ以外は持てっていい。あそこで関税を支払ってくること」
 どうやら、「オアシス」の音楽はこの国にとって有害らしい。弟には悪いがおとなしく諦めることにした。この「偽資本主義国」では上の者に逆らってはいけないのだ。
 どういう基準か分からないが、重さと、数量、品で規定の関税を払わなければいけないらしく、宿代の2倍ほどの金額を別のカウンターで払い、そこで受け取った用紙を先ほどの窓口へと持っていくと、郵便局に通うこと3日、やっと小包一つを受け取ることができた。
やれやれだ。
 
 こんないやな街早く出てしまおう、荷物を受け取り、やり残したことはないので早速「イランの京都」と称される、400キロ離れたイスファハン目指して出発することにした。
 街の外へと抜ける3斜線の道路を南へと向う。交通量は多く、車やオートバイが排ガスを黙々と出しながら走っていた。排気ガスのせいで顔はアフガニスタン人と間違われるほど真っ黒になるし、少し遠くもガスって見えないし、まったくひどいところだよ。
 突然、かぶっていた帽子がフワッと脱げた。横に並んだオートバイにまたがった2人組みの男の1人が、ぼくの帽子をつかんでいた。彼はニヤッと笑った。
「えっ」
 何も言う間もなく2人は前方へと消えていった。急いで追いかけたが、自転車がバイクに勝てるわけがなかった。
 ポルトガルからずーとつらいことを分かち合ってきた帽子だったのにー。ぶつけどころのない怒りをぼくは叫んで吐き出すしかなかった。
「イラン死ねー!」
 このテヘランも、イランも大っきらいだ。
だが、この時叫んだこの言葉を、ぼくはこの先ずっと連呼することになるのであった。

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