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さらなる試練 (イラン)
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今日でイラン入国4日目だ。まだまだテヘランは遠い。つくづく広大な国だなあ。
 イラン=砂漠=乾燥=温暖というぼくの描いていた図式はただの勘違いであることに気づいた。相変わらず毎日のように雨が降る。トルコのようにすぐ止む雨もあれば、日本のようにジトジトと丸一日降っているときもあった。向かい風も強く、上り坂も多かった。
 イランに入れば暖かく、平らで、全てにおいて快適になるだろうというぼくの予想、というより期待は見事覆されてしまった。物価はトルコと比べて安くはなったけど、町と町の間隔は離れる一方で、その間には人も住まない荒れた地が広がっていた。商店の数は減り、商品の数も減り、物の安さと引き替えに、快適さはどんどん失われていった。

 荒野の中を走っていた。
 イラン製のオンボロ車とすれ違い、電話も郵便局もない村々を横切り、時折大きな町を通りすぎた。昼は食堂でケバブを食べ、街道沿いの茶屋でチャイを飲みながら一息入れた。警察に止められ、「ポリスレストランだ」なんてジョークを言われながら、検問所でご飯をごちそうになった。坂を登り山を越え、坂を下りまた違う山へと入っていった。
 そして夜は荒野にテントを張った。ここからテヘランまではマクーとタブリーズでホテルに泊まった以外、すべてが野宿だった。それも、自分から好んでの行動だった。
 ヨーロッパを走っているときはホテル泊に憧れた。キャンプや、野宿も決して嫌いではなかったが、警察や治安におびえながら野宿をするのは決して楽な事ではなかった。だから物価の安いアジアに入ったら安全性も考えて毎日安いホテルに泊まろう。ぼくはそう心に決め、まだ見ぬ夢のホテル泊まりを楽しみにしていたのだ。
 毎日町に付いたらゆっくりとホテルを探す。値段交渉の駆け引きを楽しみ、毎日違う場所にとまる楽しさを味わい、荷物を部屋において心置きなく街を散策する。そんな風に考えていた。
トルコでは半分くらい実行していたが、ここイランでそれを実行するには必要以上の労力が伴うことが昨日わかった。それは昨晩のタブリーズでの宿探しがきっかけであった。

「さあ、ホテルを探そう」そう思った矢先であった。
 どうやって探せばいいのだ。ぼくは素朴な疑問に突き当たった。タブリーズについては情報ノートもガイドブックも持っていない。西部最大の都市らしいが、わざわざ旅人が訪れるほどの観光名所があるわけでもなく、もちろんツーリストホテルという代物があるはずもない。そしてぼくはイランに全くの初心者であったのだ。
 〈HOTEL〉そんな看板は見当たりっこなかった。看板という看板はすべてペルシャ語で書かれていた。
 唯一幸運だったのは「安宿」のペルシャ語「モサフェルハネ」という単語を知っていることだった。それでもホテル探しは難航した。
「モサフェルハネ、モサフェルハネ?」
 道行く人に居眠りのジェスチャーを混ぜながら聞きまくった。反応してくれる人もいれば、黙って通り過ぎる人もいた。ぼくの発音が悪いのか、それとも安宿自体の場所を知らないのか、みんな首を振り通り過ぎていった。
 しばらくするとやっと一人の男性が連れてってくれるということになった。しかし、彼が案内してくれたのはいかにも高級そうなホテルだった。
「ホテル、ホテル」
 そういう彼に、
「違う、モサフェルハネだ、安宿だよ」
 と告げると、彼は仕方なくぼくを古びた宿に連れてってくれた。
「ここは君みたいな者が泊まる場所じゃない。本当にここでいいのか」
 その見るからに人がよさそうな彼は、不安そうな顔をしながら、そう何度も聞いた
 ここイランでは、外国人は基本的にモサフェルハネに泊まってはいけないことになっていた。外貨獲得のためか、はっきりとした理由は分からないが、外国人はホテルに泊まらねばならないという規則が存在した。たいていの安宿、モサフェルハネは、外国人の宿泊を容認していたが中には外国人料金といって、現地人の2倍、3倍の料金を取ることもあった。
 そのタブリーズのモサフェルハネの一階は食堂になっていた。外にはペルシャ語の看板しか出ていないので、やはり一人では見つけようがないなと思った。中に入ると、主人との値段交渉が始まり、なんだか宿に泊まるという行為が途方もなく長く感じられとても面倒くさくなってしまった。

 こうして、イランで宿に泊まるには、まずペルシャ語を読めない、話せないので探すのが大変、2倍3倍料金を取られると精神的にかなりいらつく、値段交渉も毎度毎度で面倒くさい、小さな町に宿は存在しない、などなどかなりの労力を使うということが判明した。
 そこへいくとテント泊はどこまでも自由だった。町に泊まる必要がないので好きなだけ進み、好きなときに、好きなところで泊まれる。なんせぼくは家財道具を含む家自体を持ち歩いているのだから。
 しかしテント泊、野宿には安全面でのリスクがあった。特に土地が広大に開けたイランで野営場所を探すのには骨が折れた。野宿をするにはなるべく人に見つからない場所を探さなければならない。遠くまで見渡せ、隠れるところがあまりないイランでそのような場所を見つけるには苦労したものだ。
 ご飯をつくるのは夜なので、どうしてもライトを点ける。砂漠のような見晴らしのいい土地で、辺りには街灯もないのでいくら道路から離れようがテントからは明かりが漏れ遠くからも見えてしまうだろう。したがってかなり大きな障害物や、岩陰を毎回探さなければならなかった。しかしそれでも安宿を探すよりはよっぽど気が楽だったし、テントは既にぼくの「家」だったので、その「家」で寝るほうが数倍も快適だった。
 こうして、ぼくはホテル泊よりも、テント泊を続けることになった。

タブリーズからテヘランへの道中約650キロ、7日間は特にこれといった事件も起こらずに順調に走り抜ける。オオカミも全く出没しなかった。
 大雨の日にたまたま入った食堂で、親切な親父に泊まらせてもらった意外は、全て自分名義の移動式住宅に泊まった。林の中や、高台の陰、無人小屋の中、私有地にテントを張り夜に追い出されたこともあった。いつも人に見られぬよう、見られぬよう気を使った。
 それでもどうしても見晴らしのいいさら地にテントをポツンと立てなければならないときもあっり、そんな時は、トルコ東部の山中で泊まったときのようにぐっすりと寝ることはできなかった。トルコ東部以来、身の危険は常に感じていた。できることなら日本の自宅のベッドで心も体も安心しきってぐっすり寝たかった。しかしそれは無理な注文であった。
進めば進むほど、周りは荒野に近づいた。いつか殺されるんじゃないか、生きて日本に帰れないんじゃないか、その思いは日に日にぼくの胸に重くのしかかっていった。
ぼくは一つの結論を出した。
「もしも、この先悪人に見つかり殺されたら、それはただ単に運が悪かったのだ」と。
 ぼくのテントの前を、99人の善人が通り、1一人の悪人が通ったとする。または半数の50人の悪人が通ったとしよう。50人の悪人が通っても運良く誰にも見つからないかもしれない。しかし99人の善人には見つからないのに、たった1人の悪人に見つかってしまうかもしれない。要するにどちらも運次第なのだ。
 いつも、最大限気を付けテントを張る、残るのは「運」だけである。こればかりはどうしようもない。もしも悪人に見つかり殺されたとしてもそれは運が悪かったと思ってあきらめるしかないのだ。自分の「運」をぼくは信じる、だって今まで無事に切り抜けてきたじゃないか。「運」はいいに決まっているのだ。
 ぼくはそう信じることにした。生きて帰るもこの地で死ぬも全ては自分の「運」次第。天に任せよう、と。
 これは、この旅の中で得た一番の心の革命だった。完全に安心する事はできなくても、この革命以降は、以前よりずっと安心して前に進めるようになった。

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