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さらなる試練 (イラン)
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出発してから1時間も経たないうちに後輪がパンク。いったい何度目のパンクであろうか。それにしても最近は路面の状態は良いというのにパンクの回数が多い。前、後輪のチューブはギリシャで交換したが、タイヤはツルツルにすり減ったままだった。消耗の激しい後輪を前輪と交換したものの、スペインで交換したっきり走行距離はすでに8000キロ以上と、とっくに限度を超えてしまっているからに違いなかった。

 夕暮れ時にトゥデスクという小さな町に着く。この町を出て荒野の中にテントを張るつもりだったが、一人の警察官に尋問されてしまった。イランは警官の多い国だったが、他の国と同じくいい奴もいれば、いやにしつこい男もいた。しつこい警官に捕まると、なかなか尋問が終わらず、簡単に解放してはくれなかった。そして今日はよりによってしつこい方に捕まってしまったようだった。
「どこから来た」
「日本だよ」
「何処に行くんだ」
「これからパキスタンに抜けるんだ」
 ぶっきらぼうな若い警察官は、見るからに悪者だった。
「パスポートを見せろ、それとバックの中身もだ」
「いやだよ」
 もう夜は近い、町の中にテントを張るのだけはごめんだ。荒野の中より恐ろしいことだ。ぼくは日が完全に暮れる前にこの町から離れなきゃいけないのに、ここでいちいち自分の持ち物を見せっこしている暇はないのだ。しかしぼくが、そう断ると、彼はますます逆上し、身を乗り出してくると、無理矢理ぼくのバックを開けようとした。そこでまた口論が始まる。でもこの手のタイプは、こちらが反論すればするほど、逆上していくのであった。
 そこに突然1人の男が、スクーターにまたがってやってきた。
「どこから来たんだ」
 警察官など目もくれず、彼はぼくに尋ねてきた。ぼくは日本から来たと言い、この場の状況を説明した。すると彼は厳しく警察官を叱りつけ、ペルシャ語でその男を責めだした。スクーターにまたがってきた男は、見るからに人の良さそうな、ただの小太りのおっちゃんだった。しかし、先ほどまでふんぞり返っていた警察官の反応たるや、まるで上官に怒られているかのようにヘコヘコしているではないか。
 おじさんのおかげであっさりと解放されると、ぼくは彼のスクーターと並んで走り出した。彼の名前はアッバスといった。ひょっとしたら彼も警察官なのではないだろうか。ぼくが尋ねる前に、彼は自分から話しだした。
「私は教師をやっている。アラビア語を教えているんだ。今は学校の帰りだ、学校は隣町にあるんだよ」
 教師か、どおりで英語が上手いわけだ。それにしても何で警官が教師に頭が上がらないんだろう。
「イランの警察官は良くない。さっきの男はきっと君からお金を取ろうとしていたんだろう。私は今まで何人もの外国人を助けてきたんだよ、あいつは私には何も言えないんだ」
 何でだろう、ぼくは首を傾げた。
「私は昔軍隊にいたんだ」
 そうだったのか。軍隊の方が警察より強いのはこの国では当然な気がする。
しかし、あれこれやりとりしている内にすっかり日が暮れてしまったな。こんな小さな町に宿があるわけないな、そう思いつつも、彼にどこか泊まれるところはないかと聞くと、なんと彼は自分の家に泊めてくれると言いだした。
 イラン人は旅行者をよく泊めてくれると聞いてはいたけど、ぼくにもこんなチャンスが訪れることになるとは思ってもいなかった。やったー。

 古い土製の煉瓦でできた家々の路地をクネクネ曲がったところに彼の家はあった。鉄の門を開けて中に入る。扉だけは頑丈だ、ここらは物騒なんだろうか。靴を脱いで、家に上がる。裸足になることといい、家が高床式になっていることといい、まるで日本のようだな。しかし床には畳じゃなく立派なペルシャ絨毯が敷かれていた。奥からチャドルをかぶった奥さんが出てきて、ぼくを歓迎してくれた。
 しばらくすると、外にある炊事場から夕食が運ばれてきた。突然のことだから何もないけどとアッバスは言ったが、そのマトンと野菜の煮込みはぼくがイランで入った、どのレストランの食事よりもおいしかった。奥さんは食べないのかと聞くと、彼女はもう食べたのだと言う。どうやら女性は旦那の前で異性の人間と食事をしてはいけないらしい。ぼくがいるからか、家の中なのにチャドルを付けたままだ。 

 それからは賑やかな宴の始まりだった。電話もないのにどう連絡したのか、後から後から次々と、彼の親戚や友人がぼくを一目見ようと訪ねてきた。それは夜遅くまで続いた。彼らは口をそろえたように言うのだった。
「あなたはすごい、ヒーローだ!」
 11時を周り、やっと落ち着くと、アッバスは作りかけの美しい絨毯を見せてくれた。それは鶴の恩返しに出てくる機織り機の巨大版という感じの手動の絨毯折り機にかけられていた。奥さんが毎日地道に織っているという。アラビア語の先生に、イランの伝統絨毯の技術を守り続ける奥さん。いい夫婦だな。
「子供はいないの?」
 2人とも30にはなるだろう年頃だ。ぼくは不思議に思って聞いた。
「子供は作れないんだ」
 アッバスは悲しそうに言った。
「私はイラン・イラク戦争で化学兵器に薬品を浴びさせられてしまったから」
 ぼくは彼と出会ったときに、彼が以前は軍隊にいたと言った言葉を思い出した。悲しいな、戦争はそれが終わった後も人々にずっと暗い陰を落とし続けるものなのだな。

 もう1泊していけと、しきりに進めるアッバスの好意だけを受け取ることにして、ぼくは東へと進むことにした。今日は海抜2830メートルと、旅が始まって以来最高所の峠を越えなければいけない。しかし拍子抜けするほどあっさりと、峠に着いてしまった。地図が間違っているのだろうか。それを越えると25キロの下が続く。キモチー。雪の降ったタブリーズからだいぶ南下したためか、下りを楽しめるほど陽気な天気になってきていた。
 道路脇のサンドウィッチ屋に入ると、居合わした日本語使いのイラン人がおごってくれた。
八百屋でザクロを買うと、こりゃまた料金はいらないという。
 夜は食堂の隣にテントを張り、食堂に肉を買いに行くと、これも無料でくれた。
貰い物の多い1日だった。

 翌日、イランのほぼ中心に位置する、砂漠都市ヤズドに到着する。しっかし、イラン入国以来もう1700キロも走っているというのにまだ「中心」とは。ここは本当にでかい国だ。はやくおさらばしたいのに、いくらこいでも、いくら進んでも外に出ることができないのだ。テヘランでの風邪を引きずっているのか、頭がまたズキズキする。宿に着くと、倒れ込むように眠ってしまった。
 朝起きても体調は優れなかった。それどころかイスファハンにいたときのように心まで落ち着かない、動悸が激しい。いったい何なのだ。
 ヤズドには旧市街や、ゾロアスター教の教会、その墓地であった沈黙の塔、イラン一高い斜塔を持つ寺院など多くの見所があった。せっかくだからとどれも体に鞭を打ち見に行ったが、感動などできないほどさらに体が疲れただけだった。

 毎日眠る前に書く日記にはこうある。
「いったい自分はどうしてしまったのだ、ずーっと鼻水は止まらないし、また下痢になるし、頭痛もひどい。一体何かの病気なのか?町に出たけど調子は悪くなるし、20分歩いただけでクタクタになる。どうしたというのだ」
 そしてこれ以降は空白となる。この日記はここで終わり、この後に一行の文章が書かれることもなく、永遠に空白となるのであった。永遠に・・・

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