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アジアへ (トルコ)
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ぼくの泊まっている宿は、旧市街はブルーモスクの裏手の路地を入ったところにあった。ローマで会ったへんてこ日本人に教えてもらった日本人宿だ。以前ぼくは「日本人宿」というのは日本人が経営している宿のことだと思いこんでいたが、それは大きな間違いだった。
 この宿は「ムーンストーン」という名前で、イラン人とトルコ人が経営する、比較的新らしい宿だった。部屋はドミトリーと言われる相部屋で、5つのベッドが並んでいた。それはユースホステルとは違い2段ベットでもなく、マットレスが敷かれたフカフカの新しいものだった。シャワーは各階に一つずつあり、温水も出るし値段の割には快適な宿と言えた。ぼくの部屋では5つあるベッドのうち4人が日本人だった。他の部屋も同様で、ここに泊まっている旅行者の9割が日本人なのである。
 そう、「日本人宿」とはこのように大勢の日本人が泊まっている宿のことを言うのだった。悪く言えばただの溜まり場である。運悪くここに泊まってしまった西洋人は、この日本人の多さに驚き、英語も話せないで小さく縮こまって、翌日には他の宿へと移っていった。

 次なる目的地、イランに関しては日本語で書かれたガイドブックはほとんどないといってよい。『地球の歩き方』もイラン編は刊行していなかった。そこで役に立ってくるのが「情報ノート」と呼ばれるものだった。それは有名な日本人宿には必ずあるという、各国に関しての情報を旅行者が書き残したノートのことだった。
 ぼくの泊まっている宿にも、情報ノートと呼ばれる物は存在した。しかし、ここは割と新しい宿だったので載っている情報は乏しかった。そこで、イスタンブールで、一番老舗の日本人宿だという「ホテル・アヤソフィア」に行くことにした。そこには有名な「情報ノート」があるという噂だった。
 ホテルとは呼べないような、その小さな建物の階段を上がり中一階に入ると、狭いフロアに怪しげな日本人がたくさん溜まって話をしていた。彼らはぼくがヨーロッパで出会った旅人とは明らかに違う雰囲気を発していた。強いて言うならば、ローマで会ったアジアから来た、あの旅人に似た雰囲気を発している。そして彼らは長期旅行者しか理解できないような、旅人単語みたいな言葉を頻繁に使いながら話をしていた。
「おいおい、ここはいったいどこなんだ。なんで日本人がこんなに大勢いるのだ」日本の怪しげな 飲み屋にでも迷い込んだような錯覚がしたし、同人誌やアニメのおたくな集会に出席しているかのようでもあった。
 ぼくは不思議がりながらもそのノートを見せてもらった。ノートにはイランの情報に限らず、トルコやインド、中央アジア、中東、果てはアフリカの情報まで書いてあった。
〈エジプトのピラミッドに登る方法―入国不可能と言われるアフガニスタンに入国してきた話―アテネのパルテノン神殿に無料で入る方法―イスタンブールのおいしいレストラン情報〉などなどガイドブックには書かれていない様々な興味深い情報が載っていた。とりあえずイランの情報だけピックアップしてコピーをさせてもらうことにした。
 イランに対しての情報も立派なもので、主要都市の手書きの地図まで載っているわ、安宿からレストランの場所、闇両替はどこでできるか、ヴィザの延長場所、バスの停留所に、その時刻表と料金、しまいには歴史や文化のことまで書きこんであるものまである。なんて親切で、役立つノートなのだろう。これらは書くのに相当な時間がかかっているに違いない。そこまでしてこれを作った人たちの目的はなんなのだろうか。

 イランから来たからもう用はないと、同室の人に貰ったノートのコピーは、ワープロで打たれていた。いったいどうやって、ワープロで打ったのかと聞くと
「これをつくった人はきっと、日本に帰ってから書いて旅行人という雑誌に投稿したんだよ」
 旅行人、その名前なら以前日本で聞いたことがあった。主に貧乏旅行について書かれた月一の月刊誌だ。そこに送ると情報と引きかえにお金でも貰えるのだろうか?ぼくはそう訪ねた。
「いや、それはないが、それよりも彼らの目的は世に名前を知らしめるっていうか」
はー?なんだそれは。自分の名前を世に広める、ますますぼくには理解のできない話だった。世の中にはいろいろな旅人がいるのだな。

「そりゃあ、世の中には様々な旅人がいるだろうさ、それでもここイスタンブールは、世界で最もいろんな種類の旅人が集うところではないだろうか?」ここでの滞在が、長くなればなるほど、ぼくはこの考えが正しいものだと確信していった。
 長期旅行者で、ユーラシアを旅している人は、必ずと言っていいほど、この町を通るのだ。いやユーラシアだけではない、アフリカから来た者も、インドやパキスタン方面からアジアを抜けて来た者、またはウズベキスタンやカザフスタンなどの中央アジアと呼ばれる地域を抜けてきた者、中東から来た者、そしてぼくみたいにヨーロッパを抜けてきた者。
 そう、ここは今も昔も変わりなく、文化の交差点であり、旅人の中継地点なのだ。
 愉快な旅人が集まる場所でもあるが、変わり者が集合する場所でもあるのだ。ぼくの宿にも長期滞在者や、長旅旅行者が多数いた。しかし、様々な場所を巡り、長い間旅をし続けている経験豊富な彼らの多くを、ぼくは好きになることができなかった。この宿で出逢った旅人だけが、運が悪くそうだっただけかもしれないが・・・
彼らは一言でいうと「うざい」のだ。

 ある人との会話はこうであった。
 どこから来たのかと聞くと、
「今はヨーロッパ」
「今はって?」
「その前はアフリカにいて、どこどこに行って、それから・・」
 自分のことを話したくてしょうがないので一度聞くともう止まらない。
「今何ヶ月?」と聞かれ
「3ヶ月です」と答えると
「まだたった3ヶ月か。オレは、1年も旅してるよ」
「ぼくは1年半だね」
 と長ければ長いほどえらそうなのだ。自分はどれだけ安く旅をしているか、どれだけ多くの国に行ったか、入国しにくい国に入ったか、みんながそれぞれ競い合うように自分の旅を自慢しあう。
 ここではいかに「安く」「長く」「マイナーな国に行く」ということが、ステイタスであるようだった。自慢しあうことはいっこうに構わない。しかし彼らの最も悪い所は、まるで自分の旅が全てのように、人の旅を馬鹿にすることだった。
 ぼくが自転車で旅をしているというと、ヨーロッパで会った旅人は驚いたが、ここにいる人の反応は違った。
「へーオレも自転車の奴には3人会ったよ」
「オレは5人に会ったよ」
 わけもわからずまた数を自慢しあう。そして自分は実際に自転車で旅したことなんてないのに、「自転車の旅ってさ」とまるでなにもかもわかっているかのように、自転車旅行を語り始めてしまうのだ。挙句の果てにある奴はここまで言った。
「どこまで行くの?」
「シンガポールです」
「なーんだ、弱えな、日本まで行かないんだ」
 自分は同じことができるかっちゅうの。まったく人の苦労も知らないで。これにはもう驚きを通りすぎて、怒りさえ感じた。ぼくはそいつをぶん殴ってやりたい衝動さえ感じてしまった。

 イスタンブールに来て、ヨーロッパとの違いを一番感じたことは、この旅人の「質」の違いだった。ヨーロッパをにいた旅人は、学生が多いこともあったが、誰もがみんな爽やかだった。それに比べてここには「濃い」人たちが多い。「さわやか」なんて言う言葉は微塵にも感じられない。
 旅をしているんだか、それとももう旅ではなくなってしまっているのか。旅が生きがいというよりは、旅でしか自分の価値観を見出せない人たち、ぼくはそのように感じてしまった。
 結構!それも一つの生き方である。しかし彼らの初心者否歓迎的な態度や、自慢話にはなんだかこちらは疲れてしまうのだ。日本を出て3ヶ月。連続休暇を10日取ることでさえ難しい日本において、3ヶ月の旅行というのは十分長いんじゃなかろうか。それでも彼らは半年以上しか同格と認めない、つまり自分の価値観しか認めないのだ。
 この宿にもヨーロッパから来た旅人が数人いて、彼らもまた、この「旅人」のヨーロッパとの違いにたじろいでいた。「長旅をしてもああなるのは絶対によそうね」と、ぼくらは深く誓い合った。いつまでも風のように爽やかでいたいなと心から思った。

 ここに来て初めて、旅とはおたくな世界だったんだなと実感したが、そのディープな世界も外から見ている分にはおもしろかった。
 ある日、みんなでトランプをすることになった。そこで自然と自己紹介をしようという話が出た。
「ぼくは佐々木です」
「ひでゆき、ヒデって呼んでください」
 順番に名前を言っていく。ぼくが注目したのは「没有」と大きく漢字で書かれたTシャツを着た人だった。前髪はきっちりと揃っているのに後ろ髪だけ伸びていて、首には数珠を巻き、短パンを履いていた。彼はいかにも向こう側の世界の旅人だった。そして彼は言った。
「オレ、トラベルネームはメイヨ。メイヨって呼んで」
 ぼくは同じくヨーロッパから来た旅人と目を合わせた。
 トラベルネーム?なんじゃそりゃ。おそらくその場にいた短期旅行者のすべてがそう思ったに違いない。だが、それ意外の長期旅行者風の人たちは当然のような顔をして全く動じていなかった。どうやら長旅をしている人で「トラベルネーム」というのを持っている人は珍しくないらしい。ほー旅も長いと違う名前が付いて行くんだ。偉いもんだなあ。

 このメイヨさんというのは、ぼくがイスタンブールで会った長期旅行者の中でも特に変った人、おたく中のおたくだった。
 メイヨさんはいつもその「没有」と手書きで書かれたTシャツを着ているので、ある日尋ねるたことがある。
「そのボツユウっていうのはなんなんですか」
「ああ、これ。メイヨって読むんだ」
 メイヨって自分の名前じゃないか。
「それはなんなんですか。どんな意味?」
 と聞くと
「うーん、君はまだ若いからね、これからまだいろいろ旅する機会も多いと思うけど、いつか中国を 旅すれば意味はわかるよ」
 彼は得意げにそう言い、なんだかとても偉そうだった。
「だからなんなんですか」
 それでもしつこく聞くと、いや顔をしながらも答えてくれた。
「だから、中国に行くとね、あの国は社会主義でしょ、どうせいくら働いても同じだから、みんな働きたくないわけ。だから宿を探すとき部屋はあるかと訪ねると、空き部屋があるにかかわらず、働きたくないもんだから〈ない〉って言われるんだ。その〈無い〉というのが中国語で〈没有〉メイヨーっていうんだよ」
 なるほど、でもだからってそれがなんであなたの名前になってしまうの、いったい何でなのって思ったけど、それ以上は聞くのをやめた。
 イランから来たという彼は、この宿にもう一ヶ月以上も滞在している長老みたいな人だったが、毎日何をやって過ごしているかというと、例の情報ノートの製作に取りかかっているようだった。毎日外にも行かないで、地図を調べて何やら紙に書きこんでいた。そして「今は清書中なんだ!」と力んでいた。それ意外の時間は日本から送られてきた本や漫画を読んでいたり、長期旅行者の中では有名だという「ナポレオン」というトランプのゲームをしていた。
 この「ナポレオン」というゲームも毎夜のように誘われたが、そのたびに「これはさー、長旅している人の中ではちと有名なナポレオンってゲームなんだけど知ってるー?」と言ってくるので、うざくなって参加するのをやめた。
 メイヨさんのつくっている情報ノートもイランに関するものだった。ヴィザをできるだけ延長して、3ヶ月もイランにいたという。イランを出てからはトルコ黒海沿岸の町、トラブゾンに1ヶ月もいたと言うのでこれまた不思議に思って尋ねてみた。
「いやね、ちょっと前までは学生の旅行シーズンだったから、イスタンブールにくれば日本人の女のコがたくさんいるって確信してたんだけど、オレは旅に生きるんやーって執筆活動に専念してたんよ」
「執筆活動?」情報ノートの製作のことを彼はこう呼んでいた。自分をまるで作家か何かと勘違いしているらしかった。
 話を聞けば聞くほど、彼はイランをこよなく愛していたから3ヶ月も滞在していたのではなく、ノートのためにより細かなイランの情報を得る、そのためだけにイランにいたように思えた。それほど彼はその情報ノートに力を入れているようだった。
 旅人との話の中でこれまたよく出てくる「印度カリー」という人がいた。その人は年増の女性で、インド滞在が長いらしく、もちろんトラベルネームであるその名前も自らがつけたということだったが、とにかく旅人同士の会話では頻繁に出場した。彼女もイランの情報ノートを書いているらしかった。そしてみんなの噂では、情報を盗んだとかでメイヨさんとかなり仲が悪いという。この日本から遠く離れたイスタンブールの地で「日本人仮想作家による著作権の侵害論争」が起きているのである。

 イスタンブールの出発が近くなったある日、イランのノートをコピーさせてもらおうとメイヨさんの部屋に行き、イランに行くからノートをコピーさせて欲しいと頼んだ。すると、メイヨさんといつもつるんでいる風次郎(トラベルネーム)がちょっと怒った口調で言う。
「そう言えば、今日イランに出発して行った二人はメイヨさんのノートをコピーしていかなかったですね」
 小太りおじさんの風次郎がそういうと、メイヨさんは不機嫌そうに言う。
「彼らは印度カリーと仲が良いからね、インドカリーのノートをコピーしたんじゃない。しかしあのノートの情報は間違いだらけだからな、あんなんじゃ路頭に迷っちゃうよ。馬鹿だなあ」
 どうやら、メイヨ派と印度カリー派と派閥みたいなものまであるらしかった。
 今度は題して「日本から遙か離れたイスタンブールの地で、日本人仮想作家による派閥争いが行われていた」とでもいうところだろうか。まあ、どちらもぼくには関係ないので情報は情報として、量が多い方がいいに決まっているから誰のでも構わずもらうことにした。
 ぼくは「無所属」といったところだろうか。
 それにしてもつくづく旅って不思議な世界なんだなあ。

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