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16.ジジイとババアはハワイで寝転べ
17.最後のハイライト
18.白い山脈、Cordillera Blanca
19.靴どろぼう
20.エクアドル・イン
21.世界最高峰Cotopaxi


 

 

Peru >> Ecuador
17. 最後のハイライト

 

南米で最も美しい町と評判のクスコ。
バスを降り、中心街のアルマス広場へとタクシーで向かう中、「その評判もあながち嘘ではないな」と僕は思っていた。
このクスコは、かの偉大なインカ帝国の首都が置かれていた場所である。日本でいうとこの京都、なんて表現したらインカの皇帝に怒られてしまうかな。インカとちっぽけな日本を比べるなって。絶頂期には南北4000kmもの領土を所有していたインカは、誰もが認める南米大陸史上最大の帝国だっただろう。
しかし、その偉大なインカ帝国も、1525年にたった180人のスペイン人によって、あっけなく簡単に滅ぼされてしまった。それからおよそ300年に及ぶスペインの支配が続くわけだ。
ここ、クスコの町はインカとコロニアルが融合した町。だから、他の南米のコロニアルな町にはない独特の美しさがここにはある。石畳の道に、赤レンガの屋根の古い建物が続く町並みは、まるで「世界遺産」の中世ヨーロッパ風だけど、そのヨーロッパの町の随所々々に当時のスペイン人が驚愕したという、インカの精巧な石組みを見ることができる。アラブの町を思い出させる、一風変わった出窓も特徴的だ。

   

こんな有名な話がある。
スペイン人の略奪振りは凄まじかった。彼らはインカ帝国の核であった太陽神殿や、有名な建造物から金銀を奪っただけでなく、その建物を破壊して、上に教会を建ててしまった。それら教会はインカの神殿の基礎部分の石組みの上に建てられた。
ある時、大地震が起こった。その地震によってスペイン人の建てた建築物はあっけなく崩れ落ちた。しかし、その土台のインカの石組みだけは揺らぐことがなかったというのである。
この話は、いかにインカの石造建築が優れた物であったかということを物語っている。それは当時、ヨーロッパの覇者の一つであったスペインの技術よりもずっとすごかったのだ。

歴史に「もし」という仮定を言うのは不可能だけど、この美しいインカの町を歩いていると、こんな考えが頭から離れなくなるのだった。もし、できることなら、僕は是非見てみたかったと。
スペインに征服されなかった、インカのその後を。

さて、もちろん、ここクスコからマチュピチュへと行くことになる。南米に来ようと決めたときに恋焦がれた3つのハイライトのついに最後がやってきた。
このマチュピチュへの行きかたは3通りある。
1.値上げに値上げした、ツーリスト電車(最安50ドル)でクスコから4時間、そこからバスで遺跡へ。
2.途中の電車駅、オリャンタイタンボまでバスで行き、そこから電車に乗る(24ドル)。
3.インカ道をトレッキング

僕の頭には、日本にいるときから3番の選択肢しかなかった。マチュピチュへ行くなら当然インカ道を4日間歩いていこうと決めていたのだ。

しかし今回僕がとったのは2番だった。なぜ?
ペルー政府は、とあるアフリカの国のやり方に似ている。外国人観光客から、いかに多くのお金を取るということしか考えていない。そして、近年その考えは加速傾向にある。だから、列車の料金だって値上がり、どこの遺跡の料金も右肩上がり。マチュピチュへは電車でしかいけないのだが、外国人はローカル列車に乗れないことになっている。
そしてその理論がそのまま適応されてしまったのが、このインカトレイルなのだ。
かつて、この道を使ってマチュピチュに行った僕の友人たちは、みんな個人で歩いていった。4千メートルの峠もあり4日間かかるが難しい道ではない。
しかし、少し前から、インカトレイルを通って個人でマチュピチュに行くのが禁止となった。インカトレイルを利用するものはみんな、ツアー会社のトレッキングツアーに申し込まなければいけなくなったのだ。治安面の問題もあると聞いたが、その背後には明らかにより多くのお金をツーリストから取ろうという魂胆が露骨に見えている。これがあまりにも商業的で、インカトレイルもただの観光収入源と化してしまったってことだ。

料金は一人150ドル〜200ドル。本来無料で歩けたところでこの料金は痛い。これは道具のレンタル、ガイド、ポーター込みの料金で、僕らはキャンプ用品を一切持っていて自炊もできるので、なんとか値下げしてくれないかといくつかの代理店を回ったけど、どこも答えもツアー内容も一緒。アレンジは不可能だった。
そしてこの一発が、インカとレイルを止めようと思った決め手だった。「ツアーは最低8人、最高10人」という言葉が。ガイドは一人っきり、これにポーターが5、6人付く。ヒマラヤでもない、のどかな石畳の道を、そんな15人で自由もなくガヤガヤ歩いてられるかってんだ。

だから僕は最も安い、ローカルバスとツーリスト電車を乗り継ぐという方法をとったのだった。非常に長い前置きだね。
途中、さも珍しい塩田に寄り、オリャンタイタンボの石造りの荘厳な遺跡を見て、列車でマチュピチュの基点となるアグアス・カリエンテス(お湯という意味、その名の通り温泉がある)へは二時間。

   

翌朝、観光客のいない時間を狙うため、僕らは5時過ぎに宿を出て、歩いてマチュピチュへと向かった。そう、歩いて。
高いバス代を節約したいという意図もあったが、なによりも、インカトレイルでマチュピチュに入れない代わりに、せめて下からは歩いていこうと思ったのである。腹いせのハイキングだ。標高差は400m。ちょっとしたジャングル気分を楽しめる、愉快な道だった。
通常2時間かかると言われるところを一時間ジャスト。休憩無しで飛ばした。だって、久しぶりに楽しいんだもん。ここは標高が2000mくらいしかない。そして僕らは6000mを登ってきたばかり。空気が溢れていてしょうがないのである。それがたまらなく嬉しくて、汗の噴出すがままに、猛烈に登った。

一時間後、それはやってきた。
ワイナピチュを背後に抱く、美しい遺跡が。マチュピチュの写真は、この南米で腐るほど見ていたので、インドでタージマハールを見たときのように、「ああ、写真と一緒だ」と思ってしまったのは否めない。
それでも、マチュピチュはすばらしい遺跡で、感動したのは言うまでもない。日本人は、と言うか僕(?)は語彙が貧弱なので
「スゲーなあ、すばらしいなあ、きれいだなあ、すごいなあ」といった言葉しか出てこないのが情けない。

   

マチュピチュは1911年にアメリカの探検家ハイラム・ビンガムによって発見された。それまでここは、まるでアンコールワットのように密林の中に埋もれていたのだ。ここはスペイン人の侵略から逃げてきたクスコのインカ人たちが最後に隠れ住んだ所だったと考えられている。その特異な立地ゆえに、最後までスペイン人に発見されることがなく、今では空中都市とも呼ばれている。なぜ空中都市なのか?ここがラピュタのように天空に浮かんでいるわけでは決してない。なぜなら、この遺跡は地上からの発見が不可能で、唯一空からしか見えないからだそうだ。
この遺跡には5千人から1万人の人間が暮らしていたという。その数のわりに家屋は少ない気がするが、なんと言っても畑の数がすごい。その段々畑は全て石垣で囲われていて、どんな急斜面にも余すことなく作られている。たまに農作業中に滑落した人がいなかったかな、って思うほど急なのだ。
そのほかにも特筆すべきことはいっぱいあるのだろうが、「すごい」という言葉しか浮かんでこない。ともかく、す・ご・い!のだ。

マチュピチュは旅人の遺跡ランキングでは常に上位3位以内に入っているが、まあそれも納得だね。なんせ日本からものすごく遠いし、その言葉の持つ神秘性、空中遺跡なんて呼ばれて想像する光景、日本からこの遺跡のためにやってきて、ここを見たときの感動はものすごいものがあるだろうなあ。
ちなみに遺跡ランキング一位は不動のアンコール遺跡だが、マチュピチュを見た後でも、僕の中の一位はアンコールと変わらなかった。

   

マチュピチュにいること7時間。「再びこの地に足を運ぶことがあるだろうか?」なんてことを考えながら、僕はアグアスの町へと坂を下っていった。

マチュピチュは長い間、インカの最後の皇帝マンコ・カパックが隠れ住んだビルカバンバだと思われていた。しかし、予想されていた黄金などが見つからないことから、今日ではビルカバンバは違う場所にあると考えられている。今だ正確に発見されていない黄金の都市。なんかロマンチックじゃないか。

最後のハイライトが終わったということは、日本に帰るということだ。これより僕らは急速に北へと進むことになる。中米へ、メキシコへ、L.A.へ、そして東京へと。

 

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