「それにしてもため息が出るほど美しい国だ」
今から15年も前、ウガンダ西部のフォートポータルを訪れた僕の日記にはそのように書かれていた。2003年4月20日、アフリカに足を踏み入れてすでに8ヶ月が経っていて、ウガンダは18番目の国だった。
アフリカ第四峰を有するシミエン国立公園を歩き、第二峰であるケニア山に登り、最高峰のキリマンジャロに達したのち、第三峰であるルウェンゾリ山の麓まで足を運びながらも、ついにこの山に登ることはなかった。
バックパッカーには割高な登山料金を支払えなかったことや、内戦後の情勢不安で整備が行き届いていなかったこと、そしてクライミングとしての難易度が高かったことが理由だったと思う。「いつかクライミング技術を身につけて登りに来たい」と未練がましく日記には書かれていた。
5年前に「ハラペコ探検隊」と洒落で名付けた7人チームで南米最高峰アコンカグアを目指した。結果は天候不順により敗退となってしまったけれど、その後も当時仲良くなったメンバーでギアナ高地や台湾の山、日本の夏山から雪山へ、機会をつくっては一緒に登った。そのメンバーで年末年始の休暇を使って、どこかに一緒に行かないかと話し始めたのは半年以上前。三度目の南米か、メキシコの山はどうか、はたまたヒマラヤなのかと話している最中に「今、ルウェンゾリが登れるらしいよ」と友人の山岳ガイドがボソリと言った。 ここから、冒頭の15年前となった話とリンクする。あのとき麓まで行きつつも登れなかった、欠けたピースのルウェンゾリについにリベンジする時が来たのかもしれない。こうして、いつものように自分勝手な想いだけで目的地を決めてしまった。「アフリカの水を飲んだものはまたアフリカに戻る」という勝手な格言をアフリカに行ったことがないメンバーにも強制して。
探検家の憧れ ナイル川源流にそびえる山
ルウェンゾリはウガンダとコンゴ民主共和国の国境に聳える広大な山塊だ。高山といえば単独峰が多いアフリカにおいては珍しく山脈の体をなしている。その山容は左右50km、縦に100kmと広大で密林の中にそびえる最高峰のスタンレー山はアフリカで3番目の高さ、5109mもある。
その存在が「月の山」として歴史に登場するのは今から1800年も昔の2世期のことだった。ギリシャの地質学者プトレマイオスがナイルの源流には「月の山」があると当時の商人などの伝聞を頼りに文献に記述したと言われている。ナイル川の源流といえば長くヨーロッパの探検家を賑わせてきたミステリーだった。時は18世紀の大航海時代、リビングストンやバートン、ベーカー、スタンレーなどヨーロッパ探検史のホープたちが、ナイル川の最初の一滴を求めて探検隊を組織し、現在のエチオピアからケニア、タンザニア、ウガンダ、そしてコンゴの密林を旅した。
その過程でスタンレーはルウェンゾリ山を見て古代の旅人たちが正しかったのだと日記に書くに至る。しかし、かの探検家たちもめったにこの山の姿を見ることはなかったという。なぜなら多くの場合、山は深い霧に覆われていたからだ。琵琶湖の百倍にも及ぶビクトリア湖から湧き上がる水蒸気により、ここは常に大量の雨が降る土地であったのだ。
ハラペコ探検隊 アフリカに降り立つ
そんなロマンチックでアフリカ探検史に名を刻むエリアに我々は向かうことにした。メンバーは僕とトレイルランナーの石川弘樹、ベンチャー企業に勤務していて、二言目には徹底的な効率化を追求し、情報で溢れている男テラ、そして同僚でもありパタゴニアの福岡店で働く紅一点のタマちゃん。侮るなかれ、彼女は高所登山の経験がメンバー中最も豊富で、北米最高峰デナリに2度も登っている。
12月21日、師走の最後の仕事を切り上げ羽田空港に向かい、中東のカタール航空で日本を出発した。経由地のドーハを超えると、砂漠の中に巨大なクレーターの山が見えた。飛行機が紅海を超えると眼下にはアフリカの大地が広がった。エチオピアなのだろうか、無数の湖と広大なサバンナが一面に広がっている。
「アフリカだ、ついにアフリカにやってきた!」
国際空港と呼ぶにはあまりにショボすぎる首都カンパラの空港に降りた我々は、その異国感に衝撃をうける。当然ながらみんな黒人だったし、女性はふくよかでカラフルな衣装をまとっていた。首都であるカンパラは標高が1,000mほどあるため、アフリカの印象よりもずいぶんとカラッと過ごしやすい気候だった。
タクシーで空港から街へ、赤茶けた道路に遠くに見えるレンガ色の家々。その景色が懐かしくもあり、アフリカのイメージそのものでもあり、ここに最後に来たのが15年も前だったとは到底思えないのであった。
首都カンパラはカオスだった。信号がまったくない上に、車も人も何人たりとも整理ができないほど溢れていた。溢れているのは人だけではなくエネルギーそのものであり、ひとの熱量だった。
翌日、リンクバスというローカルバスで西のフォートポータルへと向かう。
ウガンダはその国土が本州ほどのアフリカでは小さい国で、東はケニア、北は南スーダン、西はコンゴ民主共和国、南はタンザニアとルワンダに囲まれている。ウガンダへ行くと周囲に告げると、危ない国だとほとんどの人に言われるけど、大抵は大虐殺のあったルワンダと勘違いしている。その大虐殺も四半世紀も前に起きたことで今ではルワンダも安全な国である。いまだ危険な状態が続くのはコンゴ民主共和国で、ここは20年以上前から内戦状態のままだ。ルウェンゾリ山脈は東側はウガンダだが西側はコンゴ領となっており、西からはアプローチもできなければ登山も不可能である。
登山の起点となるカセセは「国境の町として賑わっている」とガイドブックに書かれるほど危ないコンゴの近くで今現在安全なのかどうかは日本からは想像もできなかった。情報マニアで心配性のテラが気にしているのは最近コンゴ東部(すなわちウガンダ西部のすぐ近く)で流行っている〈エボラ出血熱〉だった。「かかったら致死率100%ですよ。ドアノブ触っちゃだめです。消毒液持ってきました」などいつものように危険を煽った。それ、出発前に言ってくれよな・・・
このような危険という印象もルウェンゾリ山がマイナーで登山者が少ない理由だと思う。
首都カンパラから西に行けば行くほど、丘が増え美しい景色となった。一方でバスは蛇行を続けたいそう揺れた。道路はあなぼこだらけで、ときにダートになり、砂埃が車の中まで入ってきた。強引に改造されたシートは窮屈で、黒人の汗の匂いと床に無造作に置かれたニワトリの異臭がホコリとミックスして降り掛かってきた。「珍しく酔ってしまった」と嘆く弘樹は車窓から外にゲロを吐き続けた。そのゲロの先の車窓から見える景色は皮肉にもピカイチだった。プランテーションの紅茶畑が広がり、赤茶けて乾燥したアフリカのイメージを覆すみずみずしさに溢れている。ヨーロッパ人をもってしてアフリカの真珠と言わしめた大地、そして自分が「ため息がでるほど美しい」と唸った当時の印象は正しかったのだ。ここは本当に美しい国だった。
フォートポータルに着いたのは夕方だった。つかの間のレストをし、翌日にはさらに移動してベースタウンのカセセ、そして道路をさらに登り登山基地となるキレンべまで歩を進めた。日本を出てから3日が経っていた。