あの悪夢のような地震からちょうど3ヶ月となる10日の夜。友人8名車2台で宮城に向かった。3回目のボランティアで、ボクともう2人の友人以外の5名は初の宮城入りだ。
思い返せば、最初に行ったのは地震発生から16日目で、シンヤと二人だった。
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その後41日目に今度は4名で向かった。
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3回目の今回は、アメリカに出張したりでバタバタがあり、あの日から3ヶ月目の久しぶりの被災地入りとなった。
声をかけたらその友達もということで8人も集まってくれて、なんだかとてもうれしい。震災がみんなの中でまだ風化せずに、それぞれがなんとか助けたいって思い続けているんだと思う。
現実として週末メインでしか行けないから、いつもその短さに後ろめたくなるんだけど、8人が2日間働けば1人の16日分に当然なるわけで、みんなの気持ちがとても心地良い、スタートとなった。
朝4時には河北に着いていたので、そこから今回のボランティアの場所となる歌津までは海岸沿いを走って向かうことにした。海岸線はどこもダメージを受けていた。そのあまりの距離の長さや広大さに、みんな愕然としたと思う。
志津川の街全てが飲み込まれた光景があまりに生々しい。
瓦礫はまとめられ、撤去されてきているものの、2ヶ月以上前とそこまで光景が変わるわけではない。途方も無い範囲の広さにやっぱり声を失ってしまう。いったいぜんたいどこからやっていけばいいのだ、と。それでも地道に片付けていくしか道はないのだろうけれど。
晴れると無数のホコリ、そしてハエがたくさんわいていた。来るべき夏を思うと、これまたどうしたらいいんだろうと思ってしまう。
歌津の駅もひどかった。まさか、この高さまで波が来るとは思っていなかったのでは・・・
実は歌津は、震災から2週間後に荷物を届けに来た場所だった。徐々に徐々に、瓦礫は片付いてはいるものの、時間は止まっているかのようにも思える。それが歌津の街自体の印象だった。
WFP、ワールドフードプログラム。海外でこれを見たのは紛争地帯だった。そこはコンゴとルワンダの国境で難民が逃げて来ている場所にたっていた。まさかこの国連のテントを日本で見る日がくることになろうとは。
日本のそれは、たくさんの水や食料が中に入っていて、現在はボランティアさんが作業場としても活用していた。
今回もRQ市民災害救援センターでの活動。
歌津の拠点は、テント泊、ソーラー充電、水は5km先から汲んでくる、というアウトドア仕様なので、自立できるたくましいボランティアが多い。
初日の活動は、僕らは避難所となっている歌津中の整理整頓、掃除。
僕らは、と言ったのは、希望が尊重されみんなで譲りあったりで役割を決めるのだが、我々のグループは土曜も日曜も3つに別れたのだ。なんかやりたいことが別々、そしてそこにこだわらない、つるまないのがいいチームだなあと我ながら思ってしまった。
一時期800人いたという避難所は、徐々に被災者が仮設に移っていき、60世帯くらいが残っているだけとのこと。仮設に当選した人 / 落ちた人、贅沢な家のような仮設 / プレハブみたいなシンプルの物、希望の場所 / そうでない場所、といろいろとこれから心理的な不公平感というのが出てくるのだろう。
我々ボランティアの活動も、多様化しつつニーズが変わっていっているのだろうなと強く感じた。
一緒に行ったジュンちゃんとフミちゃんは、上のテントでみんなが集めて来た写真を一枚一枚洗浄して、思い出を返すというプロジェクトをお手伝い。
二日目は、ボクと山やんは漁師さんのお手伝い。これからわかめの漁が始まるので、マグロ漁のロープを三つに分けているところ。ぶっ通しの力仕事だったからいい運動になった。休憩時間に、全部流されちゃったよー、と一人の漁師さんが比較的普通に発言されていたのが印象深かった。徐々にではあるが、前に進める人は前に進もうとしているのだなあと思った。もちろん、そんな人ばかりではないし、それぞれのペースでいいと思うけど。
前回2回は、帰って来てからこちらが沈んでしまうほど、現実とかけ離れすぎた世界だったけど、今回は比較的ポジティブにいろいろなものを捉えることができたと思う。ただ、まだ人は足りていないのは確実で、支援の輪がこれからも広がっていくといいなあと思った。
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