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知らぬが仏の砂漠道 (パキスタン)
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顔に吹き付ける風はおそろしく冷えていた。手袋の上から寒さが伝わってくる。標高が高いから寒いのはあたりまえか。でも、その寒さともきっと今日でお別れだ。
 クエッタから南へ一気に下る。先の尖った岩山の間を縫うように、ひたすら下った。一時間半も全くペダルを踏まずに、自転車は地球の重力に引きずられ、見る見る高度を下げていった。今日でお別れなのだ。トルコのアンカラから続いた、山岳道路とお別れなのだ。

 シビーに着くと目の前から山が消え開けた大地が広がる。それも砂漠ではない緑が覆い茂った地である。いつもは、多少平らな土地でも必ず遠くには山々が見えていた。それが全く見えない。もうこの先も山はないのだ。ここからはずっと平地なのだ。どこまでも平らな土地、これをどんなに夢見たことか。
 気候は日本の春、そして蚊がぷーん、ハエがぷんぷん。ヤシの木が生え、ひまわりが咲いている。今日は野宿、町に吊されていた羊の肉を買い、肉野菜炒めをつくった。
 環境優等生のぼくは、どこの町でも野宿をしようが常にゴミは持ち歩き、次の町へと運ぶことにしていた。
 しかしこの国では、ぼくは町に入ると、ゴミを適当にぶち投げた。まーまー、なんて悪い奴なんだとは言わないでくれ。最初の頃は、ぼくは町に入るとゴミ箱がどこにあるか誰かしらに聞いて回った。なぜならゴミ箱がどこにも見あたらなかったからだ。
 住民は、ぼくの言っていることを理解すると、ゴミをよこせと言ってきて、受け取るとすぐそばに投げてニコリと微笑むのであった。よく見るとそこいらじゅうにゴミが散乱してある。どうやらこの国にゴミ箱は存在しなく、ゴミはどこにでも適当に捨てていいらしかった。そうとわかると、ぼくは町の中心にいたときだけ、辺り構わずポイポイとゴミを捨てた。これがなかなか気持ちいいのだ。しかし、ゴミが散乱してどんなに散らかっても、翌朝には紙屑一つないくらい、きれいに片づいているのであった。 これはパキスタンのミステリーの一つだった。

 翌日、夕暮れ時に町に着いてしまったので宿を捜すことにする。「デラムラッド・ジャラリ」と読むのかな、小さな町、もしくは大きな村といった規模の集落だった。メインストリートに100メートルほどの商店街があり、そこで宿を捜すと、村外れのレストハウスへと行けと教えられた。
 パキスタンでは小さな町にはレストハウスと呼ばれる、汚いが安い公的宿泊施設があることが多かった。しかし今日レストハウスに行くと、大勢の軍隊がいて、演習中のため使用不可というので、また町の中心に戻らなければいけない破目になった。
 通りすがる人に安い宿はないかと聞くと、一人の青年に食堂へと案内された。どうやらそこの2階に泊まれるという。早速そこの主人に尋ねてみると、上へと案内された。2階というよりは屋上といったほうが良かった。屋根はなく木の枠に縄を張っただけの簡素な造りのベッドが4つほど並んでいた。
 幾らかと尋ねると、15ルピーだと言う。1ルピーは3円だったのでたったの45円だ。それは文句無しに過去最安値の宿だった。
 あまりにも蚊が多いので、蚊取り線香を薬屋に買いに行くと、宿代の2倍の値段を取られた。安い野外の屋上ホテルで寝るために、宿代の2倍の蚊取り線香かあ。なんかおもしろいな。

 夜になり寝ようとすると2人の客がきた。どちらも若い男(現地人)だった。彼らもぼくと同じく屋上に寝るという。突然背の高いほうの男がぼくに向かっていった。
「一緒に寝ないか」
まただ・・・パキスタンでこう言われるのは実はもう3回目だった。クエッタ手前の警察の検問所や、砂漠で家に泊めてもらったときにも、夜になると男が一緒に寝ようと言い寄ってきたのだ。またしてもぼくは女ではなく男に好かれてしまうのであった。だから彼女に振られたのだろうか。パキスタンにホモが多いというのは、旅人の中では有名な話だったが、ここまで頻度が多いと実際には何なのかわからないなあ。果たして「寝よう」とは何を意味するのか。あの「寝る」なのかただ単に「一緒に寝る」だけなのか。もしかしたらパキスタンでは男同士が一緒に寝るのがはやっているかもしれないしな。しかし、ぼくは最後までそれを確かめることはしなかった。これもパキスタンの謎の一つとなったのである。
 夜中に急に雨が降ってきたので、屋根の下に非難した。青空ホテルも大変なのだ。

 クエッタから3日、サッカルに着くと丸一日かけてモエンジョダーロを見に行った。今のところ予定通り順調だ。久しぶりに体も洗った。前回体を洗ったのなんてパキスタンに入国した初日である。もう10日も前のことだ。それでもバケツ一杯のお湯でしか洗えなかったから、好きなだけお湯で体を洗えるなんて、それこそ14日ぶりだ。体を洗って、石鹸を流した水は泥のように茶色かった。
 翌朝は長さが1400メートルもあるという、インダス川に架かる橋サッカル・バレージを渡る。あいにく霧が立ちこめて、インダス川を眺めることはできなかっが、その広大さを感じることはできた。ムルターンまではインダス川沿いの道を進むことになるが、毎朝必ず2時間ほど濃厚な霧が出た。いかにインダス川が広いかである。
 サッカル以降は山も坂もないので、後はビューんと突っ切ってしまうつもりだった。しかし、時速は10キロ程度しか出なかった。とてつもなくひどい道路だった。舗装路と、未舗装路の繰り返し。アスファルトにはヒビが入り、所々に大きな穴が空いていた。
〈ボッコンボッコン、ガクガクガクー〉
 いくらスピードを出そうとしても、穴にタイヤが引っかかり速度が落ちる。手には振動が伝わり、手のひらが痒くなった。どんな強い風よりも、どんなに急な道路よりも欲求不満になる道路だった。そのひどい道路のせいか、道端にトラックやバスが横転しているのは日常茶飯事だった。1日10台以上の倒れたトラックを見かけることも希じゃなかった。
 そのひどい道路の横にはのどかな畑が広がり、小さな村を30分おきに通り越した。どこにも人が住んでいて、どの土地にも人の手が入っていた。ここはもう荒野ではなかった。

風景は極めてのどか、しかしそれをぶち壊すかのように暴走トラックや、暴走バスが何台も何台も通りすぎた。金ピカに装飾された、日本製の「日野トラック」は、まるでゲームでもしているかのように、乱暴な運転で追い越し競争をしていた。これじゃあ横転するのも無理ないぜ。
 退屈でボケーっとしながら下を向き自転車をこいでいると、前からクランクションの音がする。その音はどんどん大きくなり、はっと顔を上げるとすぐ目の前にまっすぐに突っ込んでくるトラックが迫ってくる。
 また、後ろからクラクションの音がするので振り向くと、2台のトラックがすごいスピードで向かってきて、追い抜かされた車が追突してきそうになる。
 よけなければ引かれてしまう。イランの、広い道路に少しの車と違って、ここでは狭い道路にたくさんの交通量。それも暴走トラックである。気を抜いて自転車をこいではだめなのだ。毎日何度、殺されかけることやら。海外自転車旅行者の一番の死亡原因は自動車事故というが、それは疑うまでもなく本当のことだろう。
 更に付け加えれば、パキスタン人の運転は皆目検討がつかなかった。わけわからん!これがパキスタン3つ目の謎。
 片側1車線の道路から2車線へと変わることがあった。しかしパキスタン人は左右2車線ずつの道路で、片側通行でなく、交互通行しているのであった。たとえば道路が北から南に続いているとしたら、北へ向かう車、南へ向かう車、北、南と4本とも交互に走るのだ。彼らの考えはさっぱりわからん。

 車にあおられ、路肩に放り出されては止まり、道路を走れば穴ぼこばかりで、まったく思ったように進まない。それでもなんとか確実に前に進むため、ぼくは「規則的スケジュール体制」をとった。

 まず、6時起床。
 本を読みのんびり朝食を摂り、荷造りをして8時に出発。
 2時間走り、15分休憩。
 2時間走り、1時間の昼食。
 2時間走り、15分休憩。
 2時間走り、合計8時間の肉体労働で毎日の幕を閉じる。

 疲れても、疲れてもぼくは強制的に自転車をこぎ続けた。まるで軍隊のようだ。これってとっても「日本人的こぎ方」かもしれないなあ。

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