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知らぬが仏の砂漠道 (パキスタン)
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果たして前に進んでいるのか分からなかった。道は一本なので迷うことはないが、持っている地図といえば、イスファハンで出会った日本人に貰った、パキスタンのガイドブック『地球の歩き方』の見開きのお粗末な地図だけである。走行距離を表すサイクルコンピューターも先のイランで川に流され失い、道端に立つ道標もころころと数字が変わりでたらめである。道路の脇には一本の線路が走っており、あとは目印もない360度見渡すかぎりの砂漠だった。イランのバム以降の砂漠にどことなく似ていた。しかしここでは一度村を出ると、人の気配などはほとんど感じなかった。線路はあるが電車を見かけることはなく、時折金ピカに装飾された長距離バスやトラックが走るだけだった。

 日本で調べた限りではここからクエッタまでは約600キロあり、ずっと砂漠が続くという。ぼくは国境でもしものために2日分の食料を購入しておいた。
 道路はいつのまにか右側から左側通行に変わっていた。過去にイギリスに支配されていたからだろうか。この砂漠は、夏は灼熱の砂漠として昼間はバスや電車でも横断するのが困難と聞いていたが、冬だからか太陽は照りつけてくるが、半袖でちょうどいい快適な気温だった。
 しかしここでも風が喧嘩を売ってきた。奴は進めば進むほど勢いを増し襲ってきた。辺りには何一つ遮るものがないので、風は吹き放題のやりたい放題。頭に来て、途中で自転車を投げ出して缶詰を食べ始める。
 一時間待つが全く収まる仕草はないので、諦めてトボトボとこぎ出した。こいでもこいでも町は見えない。結局風に対抗しながら8時間もこいだが80キロしか進めず(地図もメーターもないため予測)、目標のノック・クンディには着かずに日が暮れてしまった。国境で教わった警察署までもたどり着けなかったわけだ。

「夜は危ないから気をつけなさい」今朝タフタンを出るときに、宿のおやじにも注意された。いったいみんなそろって何が危ないというのだ。そう思いながらも、内心はビビリ、幸運にも砂漠の真ん中にチャイ屋を見つると、主人に目の前にテントを張らせてくれと頼み込んだ。彼は小屋を与えてくれ、ぼくをそこに寝かしてくれたうえに、スープみたいな食事を出してくれた。それにしてもなんでこんな辺境地に人が住んでいるのだろう。

次の日も、前からは強烈な風が吹いてきた。疲れては休み、休んではこぐことの繰り返し。時々遠くにラクダの群れが見えた。道路には所々亀裂が入り、ボコボコと走りずらい。
 景色は変わらず、現在位置も分からず、風は修まらないので、進みたいようにも進まない。それよりも前に進んでいるのかさえ分からない。それでもたまに村を通りすぎるので、何とか前に進んでいるのだなあと実感できた。
 途中で村を見つけると、喜んで食堂に入り、カレーを食べ、商店で新たに食料を買い込んだ。豆の缶詰やミカンを3キロ買った事もある。水も常に4リットルは持ち歩いた。村はどれもタフタンと同じくらいの規模の小さな村だった。それでも正確な地図がないので、忽然と現れる村を見つけたときは格別のうれしさがある。砂漠でオアシスを発見した者の気持ちが分かる気がする。 
 
 これまで通過してきた国々の、どこにでも人は住んでいた。それはこの荒れ果てた砂漠でも例外ではなかった。距離の離れた村と村の間の砂漠にも、チャイ屋だけはあった。そしてその周りには、数は少ないが人の住む小さな集落があった。
パキスタンのチャイには最初から砂糖とミルクが混ぜてあって、まるで、「午後の紅茶−ミルクティー」のようであった。あっまーいけどこのミルクが美味いんだなあ。

 風のせいで前にはすんなり進まないが、道路はほとんど平らと言ってもよかった。この暖かさからいって、もう高度も低いのかもしれない。おそらく標高1600メートルあるというクエッタへの登りが最後の登りとなるだろう。
 
 砂漠を走ること3日。昼過ぎにダルバンディという比較的大きな村を通過すると、周囲は金色の砂の砂漠となった。砂が風に運ばれて、道路の半分を埋め尽くしていた。遙か遠くに山々が見えるだけで、辺りは完全な無人地帯である。途中、ドイツのスッテカーが張ってある4WDが横を通り過ぎる。窓から女性が顔を出し、がんばれと言ってくれた。そんな些細なことで、なぜか急にぼくの胸はいっぱいになり、涙が出そうになった。ぼくはいったい何のために自転車をこいでいるのだろう。そういえば、しばらく人とまともに話しをしてないな。イスファハンを出てからほとんど旅人に会うことはなかったから。

 4日目、風が止むとともに前方に大きな山が見えてきた。そして、突然のように砂漠は終わり、緑豊かな村の中の農道を走る。600キロと身構えていた砂漠地帯も、予定外にはやく終わってしまった。砂漠を抜けたのはうれしかったけど、なんだか物足りない気がする。
 道の両脇は緑で潤っていた。ポツリポツリと家が建ち、子供も親も田んぼに出ていた。そしてそして、「石投げ子供」が復活したのだった。彼らは「わー」と大声で駆け寄ると石を投げて逃げていった。イスファハンで会ったパキスタンから来たサイクリストが、パキスタンでは散々石を投げつけられたと言っていたのを思い出した。それにしてもなぜだろう。過去にひどいことをした外国人でもいたのだろうか。

 翌日5日目からはうって変わって急激な山岳道路、木も生えていない肌の痩けた山々の間を縫うように進む。そして突然の腹痛が襲ってきた。調子に乗ってカレーをバクバク食べ、現地水をゴクゴク飲んでいたからだろうか。うー…いてーいてー、何度も自転車を止めては物陰で用を足す。荒野の野グソはいつもだと最高に気持ちがいいのに、腹が痛くて苦痛である。でもどこでも用を足せるというのが、自転車のいいところだな。バス旅行で移動中に、こんな腹痛が襲ってきたらどうなることやら。
 夕方になると、体が急にだるくなり、全く動けなくなった。またしてもハンガーノックの直前である。きっと後少しでクエッタに着くだろうに、どうしても体に力が入らない。ぼくは道端に座り込んだ。だりー・・・太陽がどんどん高度を下げていった。ああ、進まなくちゃな。ぼくは自転車にも乗れずに、それを押しながら、ゆっくりと歩いた。
 30分ほど歩くと、目の前に巨大な岩山が現れた。急な坂をトラックが次々に上っていた。この峠さえ越えれば確実に目的地のクエッタに着くのだろうな。しかしぼくにはもうそんな力など残っていなかった。テントを立てる気力すらなかった。坂の手前に検問所のような者を見つけると、泊めてくれと頼み込んだ。
 大部屋のベットをあてがわれると、ぼくはベットに寝ころんだまま、一時間あまりピクリとも動くことができなかった。
 
 翌朝、引き締まる寒さの中出発する。予想していたとおり、昨日見えた坂は最後の坂だったのだ。クエッタへの最後の峠、そして、それはおそらくこの旅最後の峠でもあるのだ。
 うねるような急登が続く、しかしこれが最後の登りだと思うとなんだか寂しい気もした。まあいいさ、後は坂を下るだけなんだから。
 峠を越え、坂を駆け下りると、標高1680メートルのクエッタに到着する。
クエッタはパキスタンの面積40%を占めるバローチ州最大の都市である。とは言っても、バローチ州自体の人口は全体の5%なので、クエッタの人口は30万人である。それでも、ぼくにとってはパキスタン初の大都会であった。

 ムスリムホテルという200円の安宿に荷物を置き、早速街を歩く。
 街は物であふれていた。それも半鎖国政策で海外の物資があまり入ってこないイランと比べて、ありとあらゆる物が売っていた。アフガニスタンが近いせいか、銃もたくさん売っていて、実際に肩に担いで歩いている人も大勢いる。なんせ安い銃なら3万円もしないで買えると聞いた。これまで何もない荒野を走り続けてきたぼくにとって、この好きな時に物が買え、食い物が食えるという状況は夢のようであった。見るもの見るものに感動しながらバザールや商店を買い物しながら歩き回った。コーヒー、日本製のペン、ジャム、パキスタンの地図、食パン、固形スープ、インスタントラーメン、どれも感動して即買い。それほどイランは物が少なかったということだ。そして、調子に乗って読みもしないのにニューズウィークなんてのも買ってしまった。
 いつものように食欲も爆発する。バザールがある通りには屋台があふれていたので、何でもかまわず試食した。ジャガイモを餃子のように揚げたサモサ、かき揚げ天ぷらのようなパコーラ、焼き鳥のようなケバブ、チキンの丸焼き、そしてカレー。イランの料理と違ってパキスタンの料理はほんっとにうまい。
 カレーを「アール・ゴビー」と呼ぶのだとすっかり勘違いしていたが、アールとはジャガイモでゴビーはグリンピースらしかった。すなわちいろんな具が入ったカレーがあり、その具によって呼び方が変わるみたいだ。でもぼくは、一度覚えた「アール・ゴビー」が気に入ってしまいその単語ばかり連発、連食した。店によって味は違ったし、たまに挽肉が一緒に入っているときがある。そんな時は最高で「肉じゃがだ、肉じゃがだ」と喜んで食べた。
 そしてぼくは本当に久しぶりに宿で日本人の旅人と心ゆくまで話し尽くした。 

宿で早速、先程購入した地図を眺める。何も問題がなければ、これからの行程はバッチリのようだ。まあこのオンボロの地図が正確だったらの話しだけども。今は12月9日。まずここから300キロほど南下してサッカルヘ向かい、世界最古の都市遺跡モエンジョダーロに寄ろう。それからかの有名なインダス川沿いに東へとすすみ、400キロも進めば、有名な美しいモスクがあるムルターンに着く。ぼくの22回目の誕生日は12月19日なのだ。中都市ムルターンにて一人でお祝いをしよう。
 そこからさらに400キロほどで国境の町、パキスタン第2の規模を誇るラホールに着く。そこでクリスマスを迎えよう。ラホールでは盗賊ホテルが多いため、旅人はYWCAに集まると聞いた。YWCAは Yong Women's Christian Associationの訳である。つまり、そこならこのイスラム国でも、滞在者のみんなと「メリー・クリスマース」ぐらい言い合えるということだ。
そしてインドの首都デリーに大晦日に到着。どうだ、ばっちりじゃないか。今までがんばってコギコギしてきた甲斐があったなあ。  

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