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インドで1勝1敗 (インドバングラ)
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ポカポカと顔に触れる空気が暖かい。もう完全に冬は過ぎ去ったようだ。ヴァラナシで寝袋や、冬物衣料を日本に送ってしまったのは正解だったな。夜は多少寒いけど、荷物が減って走りやすい。
 ブッダ・ガヤからカルカッタへの500キロは久々に起伏のある道で、ぼくはその坂道を楽しんだ。インド北部のぼくが通過した場所は、全くと言っていいほど平らだった。どこまでも同じような風景が続いていた。山は遠くにすら見えず、こげどもこげども平らな土地が広がっていた。トルコやイランの山々にいるときに夢にまで見た平野の道は、変化のないつまらない道だった。あんなに苦しかった山道も今となっては懐かしかった。苦しさの裏には、喜びがあるのだと改めて知った。

 インドはヘッチャラだった。道がひどくなったといっても、パキスタンに比べればなんでもなかったし、真平らな道路が続き、風もほとんどなかった。どこでも飯は食えたし、3日、4日走れば必ずといっていいほど大きな町に着き、そこでは旅行者用にアレンジした料理を食べることができ、日本人旅行者と日本語で存分に話せた。楽だった、しかしかつて自転車をこぐことがこれほどつまらない国はなかった。
 インド西部と、今いる東部で変化したことといえば、畑から水田の風景に変わったことぐらいであった。ぼくは相変わらず下痢をしていた。夜は安宿か食堂に泊まるので、もう全くと言っていいほど自炊をする必要がなくなっていた。すなわち、大都市以外は3食全てインド食だ。それは3食全てカレーを意味した。パキスタンから続く、このカレー三昧に、ぼくはいささか飽きてきていた。でもこれしか食べる者がないのだから仕方ない。でも下痢の原因はカレーではないと思う。きっとそれは飲み水にあるのだ。
 どこでも比較的たやすくミネラルウォーターを買うことができるのだが、ぼく自身はミネラルウォーターを買うことができなかった。現地の価格に慣れすぎてしまっていたのだ。食べ放題の定食「ターリー」が40円、ミネラルウォーターは30円。どうしてただの水に食事代とほぼ同じ額を払うことができよう。村のはずれの食堂で出される水は明らかに濁っていることがあった。それでもぼくは気にせず飲んだ。
 インドにはトイレがないらしく、通りがかりの村では誰もが道端で用を足していた。毎朝のように子供がウンコをしている場面に出くわしたが、そのインドの子供でさえも下痢をしているのだ。この国では下痢は当たり前のことなのだ。ぼくはそう思うことにした。

 ここインドでもぼくの人嫌いは相変わらずだった。
 インド人は更に大嫌いだった。彼らはツーリストが絶対に行かないような、どんな田舎の小さな食堂でも、法外な値段を言ってぼくからお金をぼろうとした。ぼくはその度に言い合いをしなければならなかったし、飯を食べる前に交渉をしなければならなかった。そんなことはパキスタンでは起こり得なかった。むしろおごってもらうことが多かったくらいだ。
 そしてインド人はガキだった。前方に自転車が走っている。速度が遅いのでぼくが抜かすと、むきになって追い抜いてくるではないか。ぼくは一定スピードで走っているのだが、彼の速度が落ちるのでまた抜かす、するとまた追い返してくる。この繰り返しだった、しかも彼は無言なのだ。これはどこを走っていても一日に数回起こったことだった。インド人は負けず嫌いなのだろうか。

 ま、とにかく、自転車のキャリアが壊れる以外は特別な問題もなく順調に進み、カルカッタに到着する。
 そこで1週間ほど休むと、そのまま国境を越え隣国バングラデシュへと入っていった。
 そしてバングラデシュの農村地帯を自転車で3日もこいでしまうと、首都であるダッカに到着した。

バングラデシュもパキスタンと同じく昔はインドだったので、インドと比べて大きな違いはみられなかった。ただ人口密度世界一と聞いていたのに、首都のダッカ以外はとても穏やかだった。
 インドを更に田舎にしたような場所だった。雨期には氾濫してしまう川も、今は乾期なので落ち着いており、そのメコンデルタの、無数にある川には橋が架かっておらず、幾多もの川を大小さまざまな船で渡った。川のあまりの大きさに、時にはそれを船で渡るのに一時間も要した。
 パキスタンに多く見られた羊肉カレー、インドでは野菜カレー、そしてここバングラデシュでは魚カレーだった。ぼくにとってはそれだけの違いだった。

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