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孤独と不安と葛藤と (ヨーロッパ)
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モロッコには4日か5日しか滞在しないつもりだったので、スペインに荷物と自転車を残し、小さなバックパック一つと言う身軽ないでたちで行く。実際に5日間という短い期間だったが、その間に20倍くらいの料金を取られてサハラ砂漠に行ったり、睡眠薬を飲まされそうになったり、やむなくバス停で野宿をしたり、下痢になったりといろいろな洗礼を受けた非常に濃い5日間であった。ここで書くと長くなりすぎるのでまたいつか次の機会としよう。

 とにかく、なんやかんやで疲れ果てながらスペインに帰ってきたときには、少なからずほっとした。まるで自分の家に帰ってきたみたいだった。まずはカフェスタンドで立ちながらカプチーノを注文し、ここをヨーロッパだと深々と感じ、そしてとりあえずそんな西洋人みたいな自分に自惚れしておいた。

 タリファからは一路、バルセロナを目指す。
 まずタリファ・バレンシア間の900キロを9日間こぎ続け、そこで1日休憩し、そこからバルセロナまでの390キロを3日間で行く。

 来る日も来る日も自転車をこいだ。バレンシアに着く頃には、出発地点からまだわずか1900キロしか進んでないが、日本を出てから1ヶ月が過ぎていた。半ば毎日のように自転車をこぐという生活に多少なりとも慣れてきてはいたが、こげばこぐほど、目の前にはある疑問が浮かんだ。
「一体自分は何のために自転車をこいでいるのか。そして一体何時になったらゴールに着くのだろう」
 一つの山を上りきった時みたいな達成感が、毎日6、7時間も自転車をこぐのに得られるわけではなかった。毎日いくら進んでも、この先にはさして変わらない膨大な距離が、どしーんと構えているのであった。それに自転車をこぐという行為そのものが楽しくて仕方ないというわけでもないし、むしろそんな毎日長時間わたるライディングは苦痛である。何しろ日本にいるときから決して自転車が趣味だったわけではないのだ。
 この旅は自分の中では冒険旅行かと思っていた。だけど、今の時点でそれはただの勘違いであるということに気づいた。

 旅にはさまざまな形がある。一人旅、家族と行く旅、恋人と行く旅、社員旅行、ツアー旅行、新婚旅行と挙げればきりがない。ぼくの旅はどのジャンルに入るだろうか。かなり最低ランクに違いない、なぜなら結局これは「傷心旅行」なのだから。

 去年の夏、ぼくはかねてから行きたかったヨセミテやイエローストーンなどの国立公園を、バスとヒッチハイクでテントを担いでキャンプをしながら周った。子供の頃から『指輪物語』『ナルニア国物語』などの冒険小説が好きだったぼくは、そのとき読んでいた本が『ハックルベリーフィンの冒険』ということもあってか、アメリカの雄大な景色に影響されて、いつの日か冒険旅行をしようと心に決めた。
 国立公園内ではバスが走っていなかったので交通手段はヒッチハイクに限定された。キャンプ場でのぼくが泊まるテントサイトは、車で来た人達とは異なり、「Hikers&Bikers」専用、つまり徒歩で来た者と、自転車やバイクで来た者に限られた。そこには、いつも何人かの自転車旅行者がいた。
 国立公園といっても中には総面積が四国に匹敵するものもあり、その中でキャンプ場から次のキャンプ場に移るとなると、百キロ以上も移動しなければならないことも希じゃなかった。その百キロ離れたキャンプ場に行っても、もちろんぼくはヒッチハイクで行くのだが、前日のキャンプ場で会った自転車旅行者と再会することがあった。そのときぼくは、自転車という乗り物が持つすばらしい機動性に気づくとともに、自分の力のみで移動することができる彼らをうらやましく思うのだった。
 ヒッチハイクもそれはそれで良い点がたくさんある。だが結局は他人まかせでしかない。いくら行きたいところがあろうと、車が捕まるかどうかは自分の運次第だし、もしも目的地の前に見たいところができたとしても、そう何度も止まってもらうのは気が引けてしまう。その点自転車はどこまでも自由だ。行き先も、休憩場所も、写真を撮るところも。そして何よりも化石燃料を一切使わずに自分の力のみで進むという、他人任せのヒッチハイクとは根本的に違うところに特に魅力を感じた。
 こうして自転車旅行に魅了されたぼくは、春にオーストラリアを自転車で旅行しようという期待を抱きつつ日本に帰ってきた。

 希望に溢れて帰ってきたのに、帰ってきてすぐに付き合っていた彼女に振られた。
この歳にしては長い付き合いだった。18歳で同棲をしてしまうなど、彼女に首ったけだった。
 別れてからの半年間、自分が何をやっていたのかあまり記憶にはない。ぼくはただの抜け殻だった。学校に行かずバイトをし、孤独が怖くて家に帰れず、下宿している友達のとこに入り浸った。朝から晩まで、ゲームをしたり漫画を読んだり、だらけた生活を続けた。
 自分がどんどん駄目な人間になっていくのを感じた。行き止まりのない深い井戸に落ちて行くようだった。一人で道を歩いていると、このまま車に跳ねられてもいいやという自虐的な考えまで浮かんだ。
 このようにして大学3年次の3月も終わりにかかったころ、ぼくはこのまま日本にいても仕方がないと思うようになってしまった。

 海外に出ようと。そうすることは逃げかもしれない、しかしこのまま日本にいても、同じ状態がずっと続くだけだ。それならばいっそ、一人で国外に出ようと心に決めた。高校の時に1年間アメリカに留学していたことがあった。それはぼくの人格を価値観から全てにかけて変えてくれた。今度も海外に行けば何かが待っているのではないかと。
 最初に決めた行き先はオーストラリアだった。なぜならワーキングホリデーヴィザで簡単に一年間滞在することができ、生活費も自分でまかなえるからだ。
先のほうにささやかな希望が見えると、以前よりは前向きに生きていけるようになった。学校に休学届を出し、ヴィザを申請し、取得までの一ヶ月間は毎日のように働いた。しかし、人間とは勝手なものだ。心に少し余裕が生まれてくると、「逃げ」という名のオーストラリア行きがだんだんといやになりだしてしまった。それからさらに時間がたち、少しずつ物事をポジティブに考えられるようになった頃、ぼくはオーストラリアに行くのが本当に意味のないことに思えてきてしまったのだった。

 自分が本当に好きなことをやろう、逃げていてはだめなのだ。今自分がもっともやりたいことをやろう。悩んだあげく、ぼくが選んだのは冒険であった。
 後は不思議とユーラシアを自転車で横断しようという考えが浮かんできた。なぜそれが、アメリカではなく、はたまたアフリカでもなくユーラシアだったのか、それは『深夜特急』を読んだからでも「猿岩石」に影響されたわけでもない。ただ漠然と頭に浮かんできたのがユーラシア大陸だったのだ。そして一度そのように思ってしまうと、その考えはもう頭から離れなくなっていった。

 思いついたのがちょうどオーストラリアのヴィザが取れた5月の終わり。翌年の4月には復学するために日本に帰っていなければならない。横たわる膨大な距離数を考慮すると、ゆっくりと計画を練るにはあまりにも時間がなさすぎた。7月には日本を出なれば行けないだろう。すると準備期間はたった1ヶ月ということになる。
 自転車旅行のノウハウなど全くなかったし、その手のことを経験したことのある知り合いもいなかったので、その短い期間で全てを独自に考え用意しなけばいけなかった。

ある日、図書館で調べものをしていると、ポルトガルにロカ岬という最西端の地があるということを知った。そこを目指そう、ぼくはそう決めた。そして最後は先に陸地が見えない海を眺めて終わるのだ、と。
その後もバイトをしては、空いた時間は図書館に行き、地図を定規で測って距離を割り出すということを続け、自転車旅行の本や、各国のガイドブックを読んで過ごした。そのように調べていくうちに、確実な情報ではないけれど、おそらく中国は自転車で入国する行為が困難であるといこと、ミャンマーやイランもヴィザが取得できず入国が難しいということ、行く時期によってはインドが雨季である事などがわかってきた。そしてぼくは進路の変更を迫られた。
 出発点を逆にしたほうが季節的に適しているので出発をロカ岬とした。ゴールをどこにするか決めあぐねたが、ユーラシア大陸の最南端であるシンガポールとした、なぜなら、そこも一つの最がつく端であり、その先も陸はなくただ海が広がっているだけだろうという理由からである。
 こうして目的のルートが決まると、早速新宿のアウトドアショップで定価7万2千円のマウンテンバイクを型落ちの3万9800円で手に入れた。これを買うまで心にあったかすかな迷いは消え、もう後戻りはできない気がした。
 バッグや修理工具など自転車にまつわる装備品を買うのにも苦労した。何しろ全くの初心者である。自転車屋に行って、店員に何か聞くたびに、決まって質問されることがあった。どこに行くのかと。
 まさか初心者でいきなり自転車でポルトガルからシンガポールまで行くなんて言ったら笑い飛ばされてしまう。だからとりあえずはフランスと答えることにしていた。なぜいつもフランスと答えていたのかはわからない。多分「ツール・ド・フランス」という言葉が頭の片隅にあったからだろう。
 調べていけばいくほど、成し遂げるのは困難に思えたし、途中通過する、見知らぬ地域で正体不明の悪人に殺されてしまう可能性も十分に考えられた。出発したまま日本に帰ってこられないんじゃないだろうか、本気でそう思った。恐怖におびえ、不安で寝つけない日々もあった。
だがとにかく、何かに駆り立てられるかのように、発案、計画、そして準備までわずか1ヶ月間という短さで、ぼくは7月2日に日本を後にした。

 そしてぼくは今ヨーロッパの大地に立っている。
日本を発ってからというもの、毎日果てしないくらい孤独だった。出発点サグレスで誓った「これから冒険旅行だ、わくわくする」という気分よりもすっかり不安と孤独の気持ちが勝ってしまっているようだった。
 よくぼくは夢を見た。夢のなかでぼくは友達と話し、家族と話し、誰かと一緒に遊んでいた。今自分はヨーロッパにいるはずなのに、夢の舞台は必ず日本だった。
 朝うつろうつろと目を覚ますと、夢では自分は日本にいたのに、目の前にはテントの天井があり、逃げようのない現実が待っているのであった。
 冒険旅行で果たしてここまで孤独を感じるものなのだろうか、いや感じないだろう。いくらぼくが前向きに思うとしても、これは紛れもない傷心旅行なのだろう。

 だが、いくら不安になろうが、孤独になろうが、恐怖におびえようが、今できることはたった一つしかないのだ。ぼくは進むしかないのだ、ぼくにできることは自転車をこぎ続けることだけなのだ。いつかシンガポールに着くその日を信じて。

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